なかなか巧いタイトルである。人は誰しも王様になりたいし、奴隷にはなりたくない。しかし、本書を読み進むうちに、実は自分が「奴隷」だったということに気付かされる。そして、「王様」という理想も、自分が考えていたものとは、かなり違っていたことに気付かされる。
たとえば、自分が「王様のような偉大で立派な人間になりたい」、「人から高い評価を得たい」、「世間から注目を浴びたい」という、他人からの評価、自分が思い描く(スケールの小さい)理想に支配されている考え方は、「奴隷」の思考回路だと、本書は一刀両断している。
王様とは、現在の実際の自分を受け入れ、同時に他人の幸福のために自分を捨てることができ、さらに自分に与えられた使命に邁進する心を持っている人だと、本書は説く。そして、この考え方は聖書から導かれていて、「王様」とは、次の3点を確信していることが特徴だという。
1.自分は神様から愛されている。
2.自分は神様によって、神様に似せられて創造された最高傑作の存在である。
3.自分は神様から、独自の使命を信託されている。
そして、この3点は、自分で努力して獲得するものではなく、すでに確定している事実なので、その事実を自分の中で確信できるかどうかが鍵になるというのが本書の要点だ。
はっきり言えば、聖書を自分のものとして受け入れ、信じている人は、このことを知っている。しかし、多くのクリスチャンも常に自戒、警戒していることだが、危険なワナは、この思いから高慢に移行してしまうことだ。
本書も、はっきり言っていることだが、「王様」の特質は、自分よりも国民(他人)のことを優先する思考回路にある、さらに突っ込んでいえば、本書はおそらく意図的に次回のテーマに回したポイントだと思うが、聖書の中心はイエス・キリストである。イエスは、全ての人の「罪(sin)」のために、あえて十字架にかかって死んだ。神の子、王だったにも関わらず、自分の全てを捨てたということである。
この「自分が神から愛されているという充足感」と、「他人のために自分をいつでも捨てられるという究極の謙遜」が同居しているところに、本書のいう「王様マインド」が存在するのだと思う。非常に読み応えのある奥の深い本である。