広田弘毅は、外相、首相を歴任した後、第二次世界大戦直後の極東軍事裁判で、文官で唯一、絞首刑に処せられた人物として有名である。そのため、あの城山三郎のベストセラー、『落日燃ゆ』では、急激に右傾化する日本の中で、外交努力を尽くしたにも関わらず、あっけなく死刑になってしまったという不条理にスポットが当てられている。
しかし、本書を読むと、そのイメージが少し変わってくる。たしかに右傾化する軍部に抗い、外交努力も尽くした。しかし、それは大戦前に首相に就任した時までだった。2.26事件の直後に首相に就任したにも関わらず、組閣時の条件交渉で軍部をねじ伏せるなど、軍部にも大変強い態度で接していたのだが、辞職後、外相に再任された頃から、完全にシラケてしまったというか、軍部の暴走に急に抵抗しなくなるのである。
途中からは、日本の外交を背負っていたにもかかわらず、やりたい放題の軍部にも抵抗することなく、中国との関係悪化、国際社会での孤立、日米開戦に至るなし崩し的な流れを、ただ黙って見ているだけという消極性ばかりが目につくようになった。昭和天皇も失望感を味わうようになり、部下からも突き放されるようになる。
不法行為の成立には、「何かをやった」という積極的な行為も要件に規定されているが、「何かをしなかった」という不作為も要件として成立する場合がある。広田の場合、まさに後者の理由で、極刑に処せられた印象が強い。残酷ではあるが、大国の要職にありながら、国際情勢を悪化させ、世界大戦の再来を招いた責任を、極東軍事裁判は重く見たのかもしれない。
敗戦時に、日本政府は重要な文書を大量に不法廃棄した。それで資料が残っていないためだと思うが、広田の態度が急に変わった理由は、本書を読んでもあまり具体的に分からない。一方で、その「変節」ぶりが個々の出来事とともに鮮やかに描かれているので、本書を読むとその理由が非常に知りたくなる。
もともと、2.26事件の直後の政権を引き受けたぐらいだから、軍部を恐れていた形跡はまったくない。外交官出身だから、他の者よりも早く外交の限界を悟り、途中で匙を投げてしまったのだろうか。いつかこの点が明らかになることを待ちたい。